2014年4月10日木曜日

別離の歌 /Separate Ways




別離の歌 /Separate Ways


二人の人生に変化が訪れた
もう昔とは違うんだ
手遅れじゃないさ、過ちに気づくのに
僕らは上手くいかないんだ
愛は去り、二人はただの友人のよう
まるで他人のような気もするよ
僕らに残されたものは思い出だけ
愛し合っていたと錯覚していたあの頃の

* どうしようもないんだ、別々の道を行く以外
落としていったかけらを拾い集めながら
そしてきっといつかどこかで
新しい愛にめぐり逢うだろう

* いつか娘が成長すれば分かるはず
なぜ自分の両親が離婚をしたのかと
さよならを告げる時のあの娘の涙に
僕の心は永遠に傷ついたまま

* くり返し(ハミング)
             
                (歌詞翻訳:川越由佳氏)
  
  
別離の歌に聴く、
別れてもさめない恋に潜む愛。





<別離の歌>が使用されるドキュメント映画「エルヴィス・オン・ツアー」のシーンでは、エルヴィスの孤独感がシネラマの大画面いっぱいに炸裂して強烈なインパクトがありました。

映画では、エルヴィスの乗った専用機が寒々しい空港を離陸していく場面に<別離の歌>が重なります。
  
<別離の歌>は、この光景とエルヴィスの離婚が重なった上に、エルヴィス自身とあまりにも似通った歌詞ゆえに告白的な歌として聴かれがちです。

でも、まったくそういうことを意識せずにみてもエルヴィスの哀愁が残酷なほど画面いっぱいに漂っています。
エルヴィスは笑っているので、やはり勝手な思い込みでしかないのですが。

誰でもそうですが、個人に何が起こっていても、淡々と世界は動いています。

生きていくためには世の動きにあわさざるを得ないのは誰でも同じ。
エルヴィスは普通人以上に、何万、何十万の人が待っているからこそ、心と身体がどんな状態であれ、自分をあるべき場所に移動させます。

その痛みが切ない場面なのです。

♪ どうしようもないんだ、別々の道を行く以外
落としていったかけらを拾い集めながら
そしてきっといつかどこかで
新しい愛にめぐり逢うだろう ♪♪♪♪♪♪

  
観客の心をえぐるような無常観を黒塗りの車と空港のもやに封じ込めたままにして、エルヴィス専用飛行機「リサ・マリー」は離陸します。
  
観客は心臓の音がする血の通った男の身体と心が乗っていることを知っています。
 
飛行機は観客の不安を置き去りにして飛び立っていくのです。

編集されたフィルムは、ウエットになった心にかまうことなく、ファンの熱い出迎えの様子を映し出します。
しかし地方都市のせいなのかエルヴィスもファンもなぜか寂しく見えます。
  
やがてノリノリの<ブラウド・メアリー>に変わっていきます。
  
どんなにワイルドなパフォーマンスをみせても、観客の不安は何も解決していないのです。なぜか愛ピには胸騒ぎは続きました。
しかし熱唱がすべてを置き去りにしてしまいます。
  
ボクたち観客もまるでエルヴィスのように、一番大切なことを置き去りにしたまま歌うエルヴィスに夢中になります。
  
エルヴィスはまるでシネラマの大画面を見ている観客のように、一番大切なことを置き去りにしたまま歌います。
「エルヴィス・オン・ステージ」が活気に満ちた記録映画であるのに対して「エルヴィス・オン・ツアー」には不安な空気が満ちています。
ビートルズの映画「レット・イッツ・ビー」が破壊の空気に満ちているのどこか似ています。
それが集約されたのが<別離の歌>のシーンでないかと思います。




  


エルヴィス・プレスリーは並外れた心象風景を表現します。
  
それだけ感受性が強いのです。強い分だけ傷つきますし、当然ながら一般社会や苛酷な芸能社会では苦しみます。
  
皮肉なことに、苛酷な芸能あるいはアートの世界で頂点に立つには、特別に桁外れの感受性が必要です。
  

それでも、エルヴィスの感受性の大きさ、深さに共感し、受容され、癒される人もいれば、なんとも思わない人もいます。
 
人間はみな同じようでも、随分違います。
堅実な乗用車、トラック、スポーツカーのように人は違います。
 
違う分だけ共感する量も質も違います。
先にあげた空港のシーンも人によって解釈が違うでしょう。

たいていの人は自分のことを知っている、分かっていると思っているけれど、本当のところそうではないですよね、
自分が意識できる自分なんてせいぜい全体の2~3%程度で、氷山の一角でしかない。
意識の大半は海の中にあるようなものですから、よく分からないわけですよね。
  
他人以上に自分のことが分からないことも少なくありません。
自分を知ったり、わかったりするためには他人が必要です。
自分以外の人と分かちあい、共感してもらえることで、自分が分かっていくんですよね。
心ひらいてつきあえる人と、話していると、ああ自分はこんなことが楽しいんだ。
こういう人が好きなんだってわかります。
  
ですから意識はしていなくても、他人と話していると、
自分の知らない自分発見ツアーみたいなものですから楽しいのです。

同じようなことが、音楽を聴いていても起こります。
自分はこういう感じが好きなのだ。って思うとき・・・・たとえば<約束の地>のノリノリ一体感、<愛しているのに>の泣いてはいても明るい清々しさ。それらに共感している自分を発見します。
  
なぜおまえはそれがいいの?
問いかけしてみると、意外なことに出くわします。
好きでもないことに一生懸命になっていたり、好きなことを避けていたり、
そうすると、自分が本当はなにが好きなのか、
どうしたいのかがおぼろ気にみえてきたりします。
そういう状態のときに「おまえはこうだったんじゃないのか?」と、エルヴィスが聞いてくれるわけです。

ですからエルヴィスを聴いて、もう一度人生をやり直してみようと思った人は、エルヴィスの歌に自分を発見したのだと思います。
すごく悩んでいたりして、もう気が変になるくらいの時に、いままでエルヴィスに全然関心もなかった人が、ラジオかテレビでたまたまエルヴィスを聴いて、八ツと我に返るというのは、エルヴィスから発信される何かがもともと自分のなかにあったんですよ。
それにスイッチが入るわけです。

  なんて素晴らしい瞬間!
  そう思いませんか?
 
そう考えると自分に自信がないなんて戯言でしかないでしょう。
自分の知らない自分が山ほどいるわけですからか、どんどん知らない自分に出会わないと面白くないですよ。
  
だから、積極的にまだ触れたことのない音楽に触れてみるほうがいいです。
エルヴィスの大きな魅力のひとつに、声の強さがあります。
エルヴィスの声も強さが黒人的であった要因のひとつです。
それは時には意志の強さのよう、
時には怒りの大きさのよう、
時には信念の確かさのよう、
時に愛情の深さのよう、
時にはよしよしのうなずきの大きさのようです。

お母さんが幼子にささやく「よしよし」は、おまえはいい子だよの意味です。
人はただそこにいるだけで価値のある生きものということですよね。
悲しいね。うれしいね。おいしいね。楽しいね。とてもシンプルだけど力のあることばたちは、やさしい音色をしています。

たった1秒のよしよしのことばは、やさしく強く、永遠の応援になります。
共感し、受容する。これが愛の基本です。
戦争や競争はこれとまったく反対のことをしているわけですよね。

エルヴィス・プレスリーの最大の魅力は共感と受容が声のひとつひとつに入り込んでいることです。強い声がやさしい声と複雑に絡むとき共感と受容の確かさのように聴こえるような気がします。「よしよし」という美しい日本語とエルヴィスの声が同じ性質のものだと感じるのです。

<別離の歌>・・・共感することがなくなり、受容もできなくなると、互いの関係は色あせ、応援できなくなります。
  
そんなときに別離は急速にやってきます。
自分を見つけることができずにエールさえ送れない関係はつらいものです。
  
しかし別れることが共感することであり、受容することであり、応援になることもあります。

<別離の歌>・・・そこに漂う「よしよし」がボクは好きです。


  前作に収録しきれなかった名曲を中心に構成した、バラード・ベスト・コレ
  クションの第2弾。繊細なナンバーからダイナミックなものまで、独特な深
  みのある声が最大限に活かされた内容だ。(アマゾン評)
  

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